命を紡ぐ縦の糸
<ご先祖供養の移り変わりについて>
日本のご先祖供養とは、縄文時代から続く自然崇拝と祖先崇拝を継承しています。
●なぜこのようなことを大切に行ってきたか?をご説明する前に、昔と今の違いについて説明したいと思います。
一般的な神棚です、御扉の中には天照大神・氏神・崇敬神社の三柱をお祀りします。
御扉は閉めてお祀りします、それは古代からの畏敬の念を現し「神は見たり触れたり出来ないもの」そう言った教えを継承することから始まります。
↑ 写真は一般的な神棚の祭り方ですが、実はこの祀り方明治以前の祭り方と少し違います
↑こちらの御神酒・お水・米・塩は、本来祖霊舎にお祀りされてきたものです。
●では、この祖霊舎とはどういったものでしょうか?
祖霊舎とは現在のお仏壇が使われる以前に、昔からご先祖をお祀りするお社です。
実は、現在のお仏壇は江戸時代まで須弥壇(しゅみだん)として仏像や経典を安置し勉強するための、学習デスクのようなものでした。
霊的なことは神道で幽祭神事を行ってきたので、神式の祖霊舎が本来のご先祖の御霊をお祀りするものでした。
祖霊舎の他に御霊代として、↑のような御霊代ものを神棚の一段下、または神棚の脇にお祀りするのが本来の形です。
では、御霊代とはどのようなものか?
霊璽(れいじ)をお納めするものです。
霊璽とは亡くなった方の諡名(おくりな)を書いて御霊代に納められていました。
江戸期の霊璽は基本的に白木板でした、そこに「○○○命」のような形で諡名(おくりな)が書かれていました。
※江戸期の諡名は名前だけのモノが主流です
後の時代に御霊代がお位牌に変わります。
※仏式の祀り方に変わった訳です
霊璽(れいじ)や位牌の原形は依り代です。
●依り代とはどのようなものか?
神さまに降りていただく柱です。
昔、遙か昔から日本の人々は自然を愛し、巨石や滝、大きな木には神が宿ると考えられてきました。
神社の本殿には鏡や剣が祀られていますが、剣に神が降りて頂き神託を受ける。
そのような神事が古代から受け継がれました。
宮司さんも手に笏(しゃく)を持っています、古神道では神さまが降りて来られた木を使って、笏(しゃく)を作られてきました。
※飛騨高山のイチイの木に神様が宇宙から飛来したと言う説が古神道の伝承にあり、伝承通り笏(しゃく)はイチイの木で作られています。
人も亡くなったら神になると言う考え方から、神になった御霊(人の魂)があの世から降りて頂く際に必要な柱として作られてきました。
なので本来は剣や笏を似立てたモノが位牌の原形になります。
亡くなられた方の御霊が降りて頂くモノですので、一般的には白木の物が使われましたが、時代により高価な装飾に変わりました。
漆を塗り金の装飾に変わり、金字の戒名を書く。
本来であれば、依り代の体を穢すことのは良くありませんので諡名(おくりな)は手書きで書かれていましたが、バブル時代から文字が消えない彫り物が人気になりました。
時代の移り変わりで高価な装飾の為に金の文字を入れ→文字が薄れることから→文字を彫るようになる。
非常に合理的ではありますが、このような変化は日本人が身を着飾り、身体にピアスやタトゥーを入れたり、身を削る生き方やリストカットする人たちと良く似た変化です。
ちなみにバブル時代に小耳にした話ですが、位牌の彫師さんが「本当は体を穢すから良くないんだけどねー」って仰っていました。
需要というのは恐ろしいですね、まさに日本人が金に走り身を削る生き方に邁進する現代社会に変わりました。
根本的な意味や理解があれば、安易に儲けに走ることなく普通に継承出来たことです。
しかし日本人は大切な継承文化を失ってしまいました、今一度その失ったモノの大切さを知って頂きたいです。
●諡名(おくりな)と戒名について
諡名(おくりな)は原則的に亡くなった方の名前が分かり易く「○○○命」や「○○○命之霊」など書かれます。
「○○○大人命(うしのみこと)」老境に達した男性
「○○○刀自命(とじのみこと)」老境に達した女性
「○○○彦命(ひこのみこと)」壮年の男性
「○○○姫命(ひめのみこと)」壮年の女性
「○○○郎子命(いらつこのみこと)」幼少年の男児
「○○○郎女命(いらつめのみこと)」幼少女の女児
このような年齢に応じた敬称もあります。
基本的な考えは「誰でも幽冥の世界に入り神となり子孫は祖先を敬うこと」を目的として考えられてきました。
江戸期名前の無い女性や子供たちもいました、「○○○の妻」だけのものや、「童女」など、そう言った諡名(おくりな)もあります。
では、次に諡名(おくりな)から戒名への移り変わりを見てゆきましょう。
●戒名とは?
受戒し仏門に入った者に授ける名。法号。法名。江戸時代は犯罪や不幸からの生き直し、又は人生をやり直す人につけられてきました。
また身寄りの無い無縁仏となった者に対して、僧が死者につける名前でもあります。
檀家制度や時代の流れにより、本来神式で行われていた祖先崇拝が仏式の先祖供養に変わります。
↑上記の写真を見てお解りのように、右ページの宝暦以前のモノは諡名(おくりな)でしたので年号の下に名前が書かれています。
左ページのように宝暦から戒名が使われるようになりました。
庄屋クラスの家は檀家制度により、知恩院など浄土宗などの寺に入り身分を誇示してきたのです。
明治時代に入ると、戒名の文字数が増えることが亡き人の徳となる風潮が流行り、さらに近年には仏壇には金の装飾により供養の価値が上がり、商業としてエスカレートしました。
●では、なぜ現代このような形になってしまったのでしょう?
明治の神仏分離政策から始まります
①神社の世襲制を禁止?!
これにより祖先崇拝は、地域ごとの継承が絶たれてしまいました。
なぜなら神がかりなどの神事や信仰を廃止し、幽祭神事より、昼の祭事を中心とした神事に方向転換したからです。
地域によっては神社の本殿に地域の方々の御霊代が祀られている神社もありました、この時代から幽祭神事を重んじていた神社は神社庁に帰属せず各々古代からの祭事を続けました。
※江戸神仏混仰の時代、葬儀の際その土地の慣習により違いがありますが。
死者が出ると帰幽奏上を一刻も早く奉仕しなければなりません、斎主(神職)が葬儀を進めて行いますが、場所によっては氏子総代や僧侶が斎主として執り行っていた場合もあります。
それだけ身近に行われたと考えられます。
②寺を世襲制に変えた!
本来僧侶は解脱の道ですので江戸時代まで結婚は出来ませんでしたが、世襲制により結婚し寺を守るようになったのです。
寺は地域の教養の場であり、役所の役割もありオールマイティーな場でもありました。
明治に入り神道から離れてしまった人々の救済のため先祖供養を執り行い、その頃から葬儀や祖霊祭を法事など仏式に定着したのです。
③一神教への変化や、神仏分離の混乱の中で多数の新興宗教が増える!
本来神道は宗教ではありませんでした、土着の継承文化の一つです。
古代から続く家々を調査すると、新天地で先ずは一族を守る御社を建てそこに村を作りました。
それぞれの御祖神をお祀りし、子孫繁栄を願うためです。
ですから生まれた場所に産土の神が在られ、一族のルーツを繋ぐ御柱が御祖神であり、御祖神からの継承を守ることで家々は栄えてきました。
家の子孫繁栄の基軸として信仰が残っているのです。
※以上、今から五年前に書いた記事「命を紡ぐ縦の糸」より引用しました。
今後の活動として今まで調査にあたってきた、このような正しい祖先崇拝の祀り方などについて勉強会や一冊の書籍化を目指しております。
●格安5000円で作れる祖霊舎の祀り方
●正しい産土神や崇敬神社の調べ方
●どのような祝詞を読めば良いか
●元々民間風習であった祖先崇拝、そのなかでも其々の地域の斎主が行ってきた神葬祭について。
等々
また、歴史調査で得た土着信仰など、現代では失われてしまった本来の家の姿が再確認された時、本当にお客様には喜んで頂けました。
立派な墓が見つかり喜んで頂いたこともあり、家の歴史が見つかった方もいます。
このようなことは占いだけでは叶うものではなく、実質的な歴史調査がなければ叶わないことでした。
又このご時世により様々な活動が困難になりつつあります!
是非、皆々様より春日見咲の活動のご支援賜れましたら幸いです。
今後とも引き続き宜しくお願い致します
misasun99@gmail.com
0コメント